筋書きのないドラマ 〜ロードレースは“競技”か“娯楽”か〜
ロードレースの神様は、初日からドラマチックな結末を用意していた。
僕はいま幸福感とともにこのブログを書いている。
ツールの初日、ロマン・バルデが成し遂げた劇的な逃げ切り勝利に、Xのタイムラインは多くのファンからの喜びと感動の声で溢れていた。
この記事は、昨年書いた「ロードレースは“競技”か“娯楽”か」の続きでもある。
僕の答えは、当時から今も変わらないし、明確である。“競技“であり”娯楽”でもある、が答えだ。昨日のレースはバルデは勝ったから(競技として)注目され、勝ったのがバルデだから(娯楽として)賞賛されると思うのだ。
競技面でいえば、勝ち方が劇的である。残り50kmからの勇敢なアタックは、普通なら無謀な賭けだ。しかしバルデはそこから単独で先頭グループに追いつく自信と覚悟があり(失敗して吸収されればメイン集団からも遅れるほどの体力を失うリスクがある)、初出場の若いチームメイトが先頭グループにいたことが見事に機能した。しかし先頭に追いついても逃げ切れる可能性は10%もなかっただろう。実際にバルデとファンデンブルーク以外は、実力者の前フランス王者のマドゥアスも含めてメイン集団に吸収された。タイム差はどんどん減っていく中、登りはバルデが平坦路はファンデンブルークが先頭を勤めて、逃げ切れるわずかな可能性を信じて二人は全力でペダルを踏み続けた。タイム差は1分を切り、メイン集団はさらに加速する。残り5kmでタイム差は35秒、残り3kmでタイム差は21秒、残り1kmタイム差は10秒を切ってお互いを視界に捉える。ファンアールトやポガチャルがもがいているのが見える。最後の直線はすごく長く感じただろう。ファンデンブルークは脚が攣っても根性でふんばった。最終的にメイン集団からは5秒差で逃げ切った。ラストツールのベテランとファーストツールの新人によるWガッツポーズは誇らしさに満ちていた。
娯楽面でいえば、今大会ではバルデ以上にマイヨジョーヌを渇望していたライダーはいないともいえる。これまで一度もマイヨジョーヌを着用したことがなくて、引退を発表して最後のツールになることをファンはみな知っている。バルデは2015年にツールで区間勝利をあげて、2016年・2017年と連続して総合表彰台に上がり、フランス人のマイヨジョーヌ候補として長きに渡り国中から最も期待を受けていた一人である。何度も挑戦しては退けられた彼がフランスチームのAG2Rから逃れるようにオランダチームのDSMに移籍したのは、そのプレッシャー回避と無縁ではない。思うように勝てなくなって苦悩していた。ここ5年間であげた勝利は3つだけ。最後の勝利からは2年が経っている。今年はリエージュもジロも2位でも笑顔でゴールしていた。そんな彼が最後に走るツールで、とうとう悲願のマイヨジョーヌを獲得した。ゴールする瞬間までバルデの勝利を祈ったロードレースファンは世界中で一体どのくらいいただろう。実にエモーショナルな瞬間だった。フランス人チームメイトのバルギルはゴール後にバルデの勝利に涙を流していた。
バルデは多くの選手からリスペクトを集めているライダーでもある。彼の人柄を表すエピソードで思い出すのは、2年前のリエージュの激しい集団落車の出来事。多くの選手がリタイアを余儀なくされ、転倒してもまだ走れたライダーはレースを再開したが、バルデだけが走れるにもかかわらずレースをやめてしまった。それはコースの外に投げ出されたアラフィリップを発見し救助に行ったからである。アラフィリップが呼吸もできない状態なのを見てとると医療チームが駆けつけるまで側にいた。その行動は多くのファンに賞賛されたが、彼は当然のことをしただけと語り、救急搬送されたアラフィリップを心配していた。そういう男なのである。
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ロードレースという競技の面白さは、突き詰めてしまえば“筋書きのないドラマ性”だと僕は思っている。その理由は、自然が舞台であることと、対人競技であることだ。しかも相手にするチームと人数が多いことが、より結末の読めない展開を誘発する。思惑が入り乱れ、勝利のための最適解は経過とともに変化していき、それに対応できる者だけが勝利を掴む。
初日のレースも、暴力的な暑さ(体感温度は38度!との報道も)で体調を崩す選手も現れた。そもそも200km近い距離を険しい山を登ることや、走っている間はずっと風による空気抵抗を受けていることが自然を相手にする厳しさだ。更に22ものチームがぞれぞれの目的を持って走っていることが競技の展開をより複雑にしている。初日ではステージ優勝を目指すチームはどれだけ主導権を握って有利な展開に持ち込めるかが勝負を左右するし、総合成績を目指すチームはエースを守ることとライバルたちの動向に注意が必要であり、スプリント勝利を狙うチームは山岳で遅れないことが目標で、やや格下のプロチームは逃げによるポイント稼ぎに注力する。ちなみに勝利したdsmには2つの戦いがあった。バルデとファンデンブルークの稀に見る美しい1-2フィニッシュの裏側で、最後にゴールしたのは同チームのスプリンターのヤコブセンで、ブラム・ウェルテンがタイムカットにならないように付きっきりでサポートしていた。
ライダーたちの思考や感情も見え隠れする。バルデがアタックした時、行かせては危険なライダーだと誰もが知ってるはずなのに一緒についていくライダーはいなかった。残り距離があり過ぎると誰もが思ったし、メイン集団にいるポガチャルをライバルたちは警戒していた。ジロで暴君のごとく集団を破壊した残像は生々しい記憶であり、絶好調を公言しているポガチャルに対してライバルたちは手負いの状態で、暑さによる疲労も激しい。しかもツールはまだ3週間も続くのだ。初日に残りのステージを犠牲にするほど愚かなことはできない。そんなライダーたちの心理もバルデは計算していたのだと思う。
そして、これは個人的な憶測なのだが、ポガチャルは本調子ではなかった。彼が本気ならUAEの豪華なアシストを使い倒してもバルデとの差をもっと簡単に詰めていただろう。最終盤に追走するメイン集団をコントロールしたのはヴィスマだった。彼らはUAEの攻撃を押さえ込んでポガチャルの爆発に睨みを利かせた。怪我明けで本調子ではないと言っていたファンアールトが最終局面でメイン集団にいた。その存在がポガチャルの攻撃力にブレーキをかけて強引な勝負に出させなかった。バルデが逃げ切れた背景にはそんな“運”も少し味方をしてくれたと思う。この推測でいくと、ファンアールトがジロに出場していたらポガチャルがstage1を制していた。別の言い方をするとファンアールトが春に怪我をしてスケジュールを変えることがなければバルデのマイヨジョーヌはなかった。何かひとつ状況が違えば、導かれる結果が変わってくる。ロードレースはそんな複雑で繊細な競技だと感じている。
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ロードレースには「予定調和」がほぼ存在しない。バルデが勝つと予想していた人はほとんどいないだろう。しかも劇的なギリギリの逃げ切りなど。この勝利はバルデがひとりで成し遂げたものではない。一緒に逃げたフランク・ファンデンブルークはとても従順で強靭で彼がいなければ逃げ切ることは不可能だった。このレースで多くのファンに認知されたに違いない。DSMに移籍してからのバルデは後輩への教育係的な役割も担っていた。最高の舞台で最高のお手本を示し、ファンデンブルークにとってもきっと生涯忘れ得ないレースになっただろう。いつの日か彼もまた後輩に自らの走りを見せつける日がくるかもしれない。ロードレースは今までもそうやって歴史を作ってきた。
少し脱線する。ロードレースは小説で云えば「群像劇のミステリー」のようでもある。僕の大好きな小説家の一人である奥田英朗氏は群像劇が抜群にうまい。様々な人々の行動がお互いに干渉し、意外な方向に物語が進む。奥田氏には「プロットを書かないこと」と「真実はディテールにこそ宿る」というスタイルとポリシーがあり、それが結末の見えない緊張感のある物語を生み出している。そんなところに僕はロードレースとの共通点を見出す。結末がわからないから競技として面白いし、多くの人々の思いが積み重なるから娯楽として愛されるのだ。
初日は特にドラマチックなレースになることが多い気がする。思い起こせば昨年もイェーツ兄弟のワンツーフィニッシュという劇的なレースだった。一昨年はランパールトの個人TTでの涙の勝利で、その前はアラフィリップの涙の勝利で黄色い舞台は幕を開けた。やはり、初日の優勝者はマイヨジョーヌを着用するということが、さらにその価値を高めているのだと思う。
初日から、本当に良いものを見させてもらった。バルデおめでとう。
僕はロードレースには神様がいると思った。