ヨナス・ヴィンゲゴーとタデイ・ポガチャル。彼らが現在の最強グランツールライダーであることには異論は少ないだろう。これで3年連続でツールの総合1・2位を独占してしまった。二人の若さを考えれば当分彼らの支配は続きそうで、すでに歴史的に見ても稀有な存在とさえいえるかもしれない。トゥールマレーやピュイ・ド・ドームで過去最高の登坂タイムを作ってしまったり、他のライダーたちに大差をつけてしまう(総合3位のアダムとヴィンゲゴーの差はなんと10分56秒!)突き抜けたパフォーマンス。そんな二人に感じた“違い”を今回は記しておきたい。
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プロ野球の理想のピッチャーでよく議論されるのが「一人1球でアウトをとり27球で試合を終える」のと「全員を3球三振に打ち取る」のと、どちらがいいか。前者は相手打者の急所や状態も知り尽くす周到な準備や戦略と、それを実行できる精密なコントロールやメンタルが必要で、合理主義の理想像といえる。後者は投手としての圧倒的な能力の全て、例えば威力ある直球や多彩な変化球に加えてコントロールもスタミナも持ち合わせて打者をねじ伏せる力が求められる夢の世界だ。
つまりは、徹底的なリアリストと、夢を追い求めるロマンチストである。
今年のツールでは、最終的なマイヨジョーヌから逆算し勝負どころを見極めて実行したヴィンゲゴーが“リアリスト”で、全てのステージで自身の最大のパフォーマンスを披露しようとしたポガチャルが“ロマンチスト”であると、僕は感じた。どちらがいいかという話ではなく、何を理想とするか、選手としての“価値観”の問題なのだ。“美学”と言い換えてもいい。
ヴィンゲゴーはマイヨジョーヌを着るために、全てを捧げる覚悟を持つ職人のようであった。プロとしてチームのエースとしての責任感を感じる仕事ぶりは尊敬の念を抱く。おそらく昨年のコース発表があったときからチームでレース戦略を徹底的に分析し、トレーニングも他のステージレースもツールの準備として過ごした。今年の勝負所を3週目の個人TTとクイーンステージと捉えてコンディションのピークを作りあげた。自身の武器でもあるTT能力を研ぎ澄ました1ミリも隙のない全力のタイムトライアル。更に翌日の5400mに及ぶ長く厳しい登坂を誰よりも速く駆け上がった圧巻のパフォーマンス。それまでの15のステージを走ってポガチャルとの総合タイム差はたったの10秒しか開いていなかったのに、この二つのステージだけで、7分35秒まで広げて見せた。個人TTを控えた彼の脳裏には、ジロのstage20で大逆転を果たした盟友ログリッチの姿もあったに違いない。有能なチームメイトによる献身と、全てのスタッフを含めたユンボのチームワークの結集が、“リアリスト”としてのツールの総合優勝だったと思う。
そして、ポガチャルは(よくも悪くも)奔放で自由だ。今年は全てのレースで勝利を目指していた(そもそもモニュメントとツール総合優勝ともに狙うなんてことができるのは現代ではポガチャルしかいない)。春のクラシックレースにコンディションをピークに持って行ってロンドを勝利し、結果的に怪我に繋がったアルデンヌクラシックもフルで走ったことはツールにおけるポガチャルの敗因のひとつにあげられるし、ツールでもstage1から無謀なアタックを繰り返してゴールスプリントも全力でもがくようなスタイルが、stage5やstage17での失速に繋がったのも無関係ではないはずだ。それでも、その行動力が彼の弱さでもありつつ魅力でもある。これまで何度も非常識な勝利を見せつけてきたポガチャルだからこそ、ロードレースにおける既存の常識をぶち壊すような痛快さがある。“守る”という姿勢はポガチャルには似合わない。stage17での失速の後にstage20で勝利するなんて、彼らしい“ロマンチスト”の鑑と呼びたい姿だ。
彼ら自身の特性は、そのまま彼らのファン層にも影響があるように感じる。ポガチャルの方が派手な勝ち方をしたり、陽気な性格やパフォーマンスといった分かり易さから一般的な人気を獲得しているように思う。ただし、それはライト層も含めた人気で、ヴィンゲゴーの方がより深く応援するファンが多い印象もある(それは愛情と呼べるレベルだ)。少し変な例えになるけど、“記録”に残るか“記憶”に残るかという違い。王貞治(リアリスト)と長嶋茂雄(ロマンチスト)のような、現代でいえばイチロー(リアリスト)と大谷翔平(ロマンチスト)の違い、に近いのかもしれない。どちらも偉大であることには変わりない。(つい野球に例えるのは僕の性癖だから許してください)
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女子版ツールのファムでも似た構図があった。フォレリングとファンフルーテンのという、“リアリスト”と“ロマンチスト”の対決。フォレリングには(SDワークスと置き換えてもいい)賛否の声が聞かれたが、どんな手段を使っても今回は勝つんだという強烈な意志が感じられた。ファムではペナルティを受けて、タイム差をつけられたり監督がレースから除外されたり逆風も吹いていた(自業自得とか、いろんな見方もあるとは思う)し、ブエルタではトイレ休憩時にモビスターにアタックされて敗れた。ファンフルーテンが最後まで怖かったのだと思う。ロードレースには“絶対”はない。
そもそもファンフルーテンほど“ロマン”を感じさせる選手はいない。ピーク時の圧倒的な強さはさすがにはなかったけれど、彼女は過去に何度も逆境になればなるほど強烈な闘志と勇気で跳ね返してきた。手首を骨折してレースに出て、しかも勝ってしまうなんて漫画でもありえないことを成し遂げてきた。つまらないレースをして勝つより面白いレースをして負けるほうを選ぶという、チャレンジングな姿勢があふれるエンタテイナーぶり。このファムでも最後まで彼女らしいレースを見せてくれたし、女王の座を明け渡すという最後の大仕事も見事にやってのけた。
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リアリストとロマンチスト。
ヴィンゲゴーとポガチャルにとどまらず、様々な局面でそれらを感じることがある。例えば、ベテラン(リアリスト)と若手(ロマンチスト)。或いは、メイン集団(リアリスト)と逃げグループ(ロマンチスト)。
僕の知っている範囲の知識では、ロードレースでリアリストの象徴といえる存在になったのは、フルームがいた頃のチームスカイか。マージナルゲインという考え方はまさにリアリストのものだ。彼らの成功は、現在のユンボに引き継がれていると感じる。(もしかしたらアームストロングがリアリストの礎を築いていたのかもしれないが僕はその時代をリアルタイムで知らない)
時代としては“リアリスト”に重心が移っているように感じる。パワーメーターで選手の特徴や走り方も定義し、食事からトレーニング、ありとあらゆることをデータに基づいて管理する流れはおそらく今後も止まらない。テクノロジーの発展とロードレースの進化が同義でもあるからだ。逆に言えば、その流れに乗れない選手やチームは淘汰されていってしまう。
そういう意味では、“ロマンチスト”の代表とも感じられた選手は、サガンやピノだったような気がする。彼らの人気にはロマン溢れるスタイルにあったのは間違いないし、同じ時期に若くして引退してしまうのは、ロマンチストでは生き残れないレース界になってきていることの象徴なのかもしれない。
だからこそ、新しい世代のロマンチストの登場を我々は(僕は)待っている。それは、“リアリスト”を内包した“ロマンチスト”なのだと思う。例えばレムコはどうだろうか。ロードレースのあらゆる栄誉を貪欲に求める姿勢や、常に自らアタックするスタイルは“ロマンチスト”そのものである。数々の最年少記録を創出している事実がすでにロマンの塊である。それでいて進化を止めない。「スプリントに弱い」「登坂が苦手」「ダウンヒルは危なっかしい」といったネガティブもどんどん解消し(石畳の苦手だけは残りそうだけど)、そしてメンタルの強さが尋常ではない。勝利のためには一切の妥協を排除することは“リアリスト”でもある(チームメイトにもスタッフにも理想を求めるし、軋轢覚悟でベルギー代表でファンアールトを批判したことだってエゴイスティックなほどのリアリストだからだ)。そもそも単独でアタックすることが確実に勝利することを追い求めた答えなのだ。
そしてレムコのお手本はやっぱりログリッチなのだと思う(総合に関しては)。ログリッチはかつてブエルタで総合1位でありながら無茶なダウンヒルで落車し「No risk, no glory」という名言を残したほどのロマンチストでありながら(リアリストならリスクは冒さない)、今シーズンのスタイルはリアリストのものだ。山岳ステージのゴール前だけスプリントするという効率の良さ、リスクを排除した勝負へのこだわりは現在進行形であり、レムコの目指すべきスタイルに感じるのだ。
ロードレースには(というか世の中には)リアリストもロマンチストも、どちらも同じだけ必要なのではないだろうか。多様性こそ、ロードレースの最大の魅力なのだと思うから。